第一部 教会史

一、教団成立前後の救世軍と尾陽教会

山本よね牧師

 日本基督教団の成立に際して、どの教派もそれぞれ大変であったろうが、合同した三十余派の福音主義教会の中で、最も困難な状況にあったのが、私の属する救世軍だったろうと思う。他の教派の方々は、何等かの形で今までの特異性を維持することが出来たであろうが、私たちはただ合同するというだけでなく、始めからその体質が全く変わみことを覚悟しなければならなかったからである。また、教会合同を指導した当時の文部省の立場からすれば、救世軍の取扱が特に意識にあったことは容易に想像することが出来る。御存じのように救世軍の本営は、英国のロンドンにあり、日本の伝道の全ての報告をはじめ、新しく伝道をはじめようとする町については、人口や産業だけではなく、詳細な調査報告が本営に送られていたために、スパイの嫌疑がかかり、首脳部の方々は、しばらく拘留され、激しい審問を受け、「救世軍」という名称を用いることが禁止され、「救世団」と改められ、東京の神田にあった日本の本営は勿論のこと、地方の小隊に至るまで、当時の特高警察や軍隊の憲兵によって捜索され、常に監視され、出入りする人まで調査される程だった。説教の内容もメモされて、少しでも問題があると、所轄の警察署から呼び出され、さんざんいぢめられたがいぢめられれぱ、いぢめられる程、主イエス・キリストに対する誠実な思いが強くなったのを覚えている。

 主人などは自分の問題だけでなく、今日の教区に当たる連隊の責任者として、各地で警察に呼び出されている伝道者の方々の弁明と、もらい受けのために、飛びまわらなければならなかったし、家族まで監視され、尾行もされた。政府としては、救世軍だけが独立したキリスト教団体として教団の外に存続することを、最後まで許さなかった。救世軍の首脳部は、その特色を生かすために、忍耐づよく文部省との交渉を繰返し、その道以外に存続の道はないことを知らされて合同を決断せざるを得なかった。当時東海連隊の連隊長であった主人は、半月以上も東京にいったままだったが、連日連夜の協議と、対外的交渉の結果、最後に合同することを決意したのは、ただ政府の圧力だけでなく、それが神の御旨であると信じるようになったからであると聞かされたことを思い起こす。そこで、まだ部制が残っていた当時は、救世軍は最後の十一部だった。十部に整理が終わっていたところに加わったという実感が十一という数に感じられた。

 この合同は、決して救世軍にとっては形式的なものではなく、その体質が全く変わることを要求されたものであった。いいかえれば、合同によって救世軍であることをやめたのである。例えば、救世軍は全く中央集権で、教会の献金はすべて一度中央に集められ、給与も伝道費も再配分されていた。それに「社会事業のない救霊はなく、救霊のない社会事業はない」といわれるように、宣教部と社会事業部に分かれながら、両者の緊密な連携の中で、救霊活動を続けてきたのであるが、教団になると、一方は教会に、他方は関係団体に分離されて、従来のような協力体制は保てなくなった。それにも増して大きな問題は、聖礼典の問題である。救世軍の教理は、その源泉であるメソジスト教会と変わりなく、その点での戸惑いはなかったが、その組織と名称の呼び名は全て違い、洗礼のかわりに入隊式、聖餐式は禁酒の徹底のためもあって、行われていなかった。勿論士官と呼ばれていた教職は、誰も按手礼を受けていなかったので、教団成立に当たっての協議で大尉以上の士官は正教師として按手礼を受けることになり、それ以下の士官は補教師としての准允を受けることになった。

 手順としては、まず、救世軍の中央首脳部の人々も各連隊長が東京で教団首脳部の人々より按手を受け、その後で全国の正教師になる士官に按手式を、補教師になる人々に准允式を行い、正教師になった方々によって、全てのメンバーに洗礼をさずけた。私が按手を受けたのは昭和十六年十一月十九日だった。それまで連隊長は監督として、小隊(教会)をもたなかったが救世団となったときに、監督もまた一つの教会の責任を持つように命じられ、当時東海連隊の本部があり、二百名以上の収容力を持った大曽根小隊の責任をもっていたので、ここで主人の司式で按手式が行われた。当時はすでに日本基督教団大曽根教会になっていた。その時に私の頭に手を置いて下さった方々の中に、初代の中部教区長の赤石義明牧師(名古屋教会)、愛岐地区長の定森次郎牧師(御器所教会)、樋田豊治牧師(金城教会)、北村健司牧師(名古屋中央教会)、橋本喜代牧師(名古屋新生教会)が居られたことを覚えている。

 救世軍から教団にかわることによって、その他にも色々の変化が起った。日曜日の朝の礼拝は聖別会、夕拝は救霊会と呼ばれていたし、讃美歌ではなく、軍歌であったし、月定献金ではなく、弾薬金であった。日曜学校の中学科は少年兵と呼ばれ、役員は下士官だった。野外伝道は野戦だったし、そこまで行くことが行軍だった。その他にも、呼び名の違うものは多くあったが、省略する。内容は変わらなくて、ただ呼び方だけが違うものはよいとして、内容まで違うものを教会と統一するためには、大変な努力がいった。私は救世軍にいながらも、教会の方々との交わりが多かったので、讃美歌を歌う機会も度々あり、讃美歌しか歌わなくなっても、あまり当惑することがなかったが、はじめて讃美歌に出会った方々は、先ず自分が覚えて、それから教会員の人々に指導せねばならず、今考えてみても、この移行は大変なことであったと思う。

 組織の面でも、救世軍は階級制度で、士官と一般信徒の兵士とでは、全く立場が違い、協議してことを行うというよりも、中央からの命令で全てがなされ、個々の小隊では、士官の命令によって運営されていたので、教団になってから、役員会がはじめて組織され、教会を運営するように変ると、まず教職が役員会を理解し、教会の運営を知ることだけでも大変なものだった。周囲の先生方に少しずつ教えられたり、書物を通して学びながら、次第に教団の教会に脱皮していった。しかも戦時下で、キリスト教そのものが国賊よぱわりされ、礼拝中に大声で妨害されただけでなく、石で窓ガラスを次々に破られるような状況の中での移行だった。当時、日曜学校の校長をしていた信徒の方が、「今、外で石を投げている子供たちは、この前まで日曜学校の生徒だった」と泣いていたことを思い起こす。

 教職の生活の面でも大変だった。今までは最低の生活は本部で保証されており、心配しないで伝道が出来たが、教会となることによって、突然自給自足が求められ、生活に行き詰まる教職が次々にあらわれた。

 それらの先生方の保護と励ましが監督者のつとめでもあった。救世軍の士官は、日頃から軍服で生活していたので、着る服に困る人々も多かった。戦後、開拓伝道とか、小教会援助とかがなされるようになって、新しく伝道される方々のためには良くなったが、何の援助もなく、伝道を続けて教会になって行った苦労を一層思わされた。

 教団成立後しばらくして、東京の救世軍の本営の人の一人が、大曽根教会に来たいとの申し出があった、というよりも、転任の命令であった。

 大曽根教会は日本でも大きな小隊の一つであったので、本営の首脳部の一人が教会を持つのにここを選んだためである。そして私共には神戸に行くように命じられたが、信徒の方々の熱意に動かされて、名古屋に留まることとし、教団になったときに主人が「尾陽教会」と名付けた沢上町にあった借家の無敗の教会に移った。電車通りに面した長屋で一階が土間と台所、二階が二間という小さなところであったが、大曽根教会の方々は、ほとんど一緒に来て苦労を共にして下さった。そして、やがて戦災でここも焼かれてしまい、瑞穂区の駒場町の住宅に移ったのである。その頃には教会員の方々も離散したり、出征したりして、誰もいなくなったところから尾陽教会は再建された。今日の尾陽教会のことを思うと、唯神の恵みによるものであると、心から感謝するだけである。

 戦争中市内の牧師は徴用を受けて、工場に働きに行かされていた。主人は人事課にいて、徴用で地方から出てきた青少年の世話をしており、戦後も是非続けてほしいと、頼まれたが、すぐにやめて伝道をはじめた。牧師の方々の中には、かなり後まで会社勤務と牧師とを兼業しておられた方々もあったが、誘惑であったことが結果として示されることになった。その意味では、早く決断して伝道に帰ったことは、今でも良かったと思っている。

 借家であった尾陽教会の土地と建物を買い取って欲しいとの申し出が、戦後間もなく家主からあった。それでなければ、出ていって欲しいという強硬なものであった。まだ教会員の多くが消息不明の時だったので孤軍奮闘して買い取った。その時、庭の片隅にあった小さな椿の木が、今ではこぼれるようなたくさんの花を咲かせ、クリスマスの後で植えた小さなヒマラヤ杉が、やがて大きな木に育っていった。その間に、教会にも多くの求道者が与えられ、次々に受洗者も得て、教会として成長することが許された。

 戦後、救世軍が復興し、救世軍に帰るようにとの勧誘が何度もあった。大曽根教会はすぐに教団を離脱して救世軍に帰った。人間的には救世軍に帰った方が有利でもあったが、一度教会になったものが、もう一度救世軍に帰ることをいさぎよしとせず、教団の教会として行く決意をした。信徒の方々にも勧誘は繰返しなされたようであるが、受洗の機会を逸してしまった数名の他は、誰も救世軍には帰らなかった。この方々も、洗礼を受けて教会の一員となったことに対して、誠実であろうとされたのだろう。正直にいって、教団の中で救世軍であったものが、共に行動するに当たっては、多くの牧師の方々や他の教会の励ましもあったが、心ない人々の中傷や悪口に、心を痛めることもなかったわけではない。しかし、救世軍が真実な教会となるために、どんなに大きな戦いがあったかということを、後の方々にも理解してもらうために、この一文を書き残すこととした。

 私にこのような機会を与えて下さった教区の方々に、心から感謝したい。そして、今日教団の問題を考えるときに、たとえそれが当時の政府の命令であったとしても、引き返せない道を、本当に苦労しながら、真実に教団の教会となろうとして歩き続けた小さな教会とキリスト者がいたことを、忘れずに覚えていてほしい。


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