第一部 教会史

二、山本忠雄牧師、よね牧師時代

(1) 教会は牧師館と共用(駒場町)

 尾陽教会は一九四五年五月熱田区沢上町にあった教会が戦災にあって全焼し酒徳氏の紹介で近くの駒場町の借家に入居された。同年八月十五日敗戦後直ちに家屋を集会所として開放し伝道を始められた。以来一九七五年迄の三十年間牧師館と共用で礼拝が守られた。山本牧師ご一家は聖日には早朝からお掃除され襖、障子を外して礼拝の場とされた。戦後は何も物がなく座ぶとんの替わりにご家族の毛布を縦に四つ折にして並べられた。よね牧師はこの三十年の間、集会の場を広くするため家財道具は一切買われず押し入れに衣類をいつも整頓して収納されていた。主のご用のために、ご不自由な生活をも厭わずひたすら伝道にのみ力を尽くされた。

(2) 山本忠雄牧師とその経歴

 一八九四年(明治二十七年)三月三日、三重県鈴鹿市国分にて生まれられた。父君は伊勢神宮の神主でおられたが又寺小屋をも開かれていた。後朝鮮の仁川にある神社の宮司となられ定年後名古屋に移られた。忠雄先生は、神社、寺院の在り方に疑問をもたれ十七、八才頃キリスト教伝道が活発だった救世軍に入られ、救世軍士官学校で勉学され各地に赴任されて卒業された。一九二一年(大正十年)

七月十五日救世軍士官松尾よね中尉と結婚され、六ケ所の小隊と二ケ所の社会部に奉仕された。一九二八年台湾全島の監督として赴任され十年近くの間に教会を二、三ケ所に設立された。一九三八年本土に戻られ東北六県と新潟を含む七県の監督となって仙台に赴任され、当時は既に大佐として活躍されていた。一九四十年東海連隊長として中部六県の監督に赴任、名古屋の大曽根連隊に移られた。一九四一年六月二十五日太平洋戦争の戦時下にあって政府の命により救世団は解散され他教派と共に合同して日本基督教団となった。同年六月忠雄先生は教団の正教師として按手札を受けられ、大曽根教会の主任担任教師として就任された。一九四二年神戸の教会に赴任されることになったが二十名余の信徒の強い要望をうけて名古屋に留まることに決心され、熱田区沢上町にあった無牧の教会(借家)に移り尾陽教会と名をつけられた。一九四五年五月名古屋空襲をうけ延焼で教会は全焼した。隣人のお世話で近くの瑞穂区駒場町に辛うじて戦災を免れた長屋の一角平屋建の借家に入居された。此の地において日本基督教団尾陽教会は発足するに至った。

(3) 教会の礼拝

 一九四一年から駒場町の教会での礼拝は日本家屋の座敷の部屋で三十年余りつづき畳の上に正座して礼拝が行われた。講壇は折畳式になっていて座敷正面に床の間を背にして中央に据えられ両脇に応接用の椅子が置かれた。この椅子は戦災時に山本先生が辛うじて持ち出された家財と言われていた。

椅子の右側には小さなオルガンがおかれたがペタルの足がそのまま見えるもので、近所の焼け残ったお屋敷の好意でしばらく借用していたが、当時の青年会長新美芳郎兄の親戚で疎開してあったオルガンを譲っていただくことになり青年会員で献金をだしあい購入することが出来た。

 礼拝は山本忠雄牧師が説教され、司会は山本よね牧師がつとめられた。後には司会者は長老に変わり説教は山本両牧師が交代でつとめられた。礼拝は讃詠、交読文、信仰告白、主の祈り、讃美歌は起立し聖書朗読、祈祷、説教、献金、報告の時は正座して最後の頒栄、祝祷、後奏は起立して行われた。

礼拝については殊に山本牧師は聖日礼拝を守ることを第一とされ、時間厳守をモットーに服装についても神様の前にでるに相応しく質素でも正装するようにと、何事に於いても神様を中心に敬う心をもつことを常に説かれていた。讃美歌も姿勢を正しく大きい声で讃美の心をもって歌うこととし両牧師も声を大にして讃美歌を歌われた。

 礼拝が終わると講壇は折りたたんで片付けられ取外されていた障子、襖をいれて牧師宅に変えられた。後日この作業も座敷の縁が折れたのを機に、礼拝の場を広くするため仕切りを除いて三部屋を通し茶の間のみカーテンで仕切って開放された。冬は寒気も厳しく住居とされた山本両牧師のご苦労は並大抵ではなかった。

(4) 山本忠雄牧師、山本よね牧師の牧会と活動

 山本両牧師は信徒の家族にも主の福音を伝えることに重点をおかれ、家庭訪問をされて信徒の家族 とも親しく話され相談にも応じられた。尾陽教会が家族的な教会といわれるのは山本両先生の愛と実 践の賜物であった。殊に印象深いことは戦時中熱心に伝道されていた石川義雄兄が肺結核におかされ 大府の療養所に入所されたが、食糧も乏しく当時はお米も配給制度で一般では満足な食事も出来ぬと きに、先生のご家族の食糧をリュックサックにいれて石川兄の病床に運ばれ同室の患者の方にも分け られた。結核病棟は伝染を恐れ家族も余り見舞う人はいなかったそうであった。又大府迄は満員の国 鉄に乗って行かれたが切符も中々手に入らなかったそうである。帰りには土手にしげるヨモギを摘ん で雑炊にして食をしのがれたと聞いている。又一九五九年九月の伊勢湾台風では殊に名古屋では甚大 な災害をうけ港区の信徒の方の水害はひどく、忠雄牧師は竹内長老と共に自転車で腰まで水に浸かりながらお見舞された。当時忠雄牧師は六十五才過ぎでおられたが精力的に牧会に専念されたことは忘れがたい。

 中部教区においては社会部委員として、教区の諸先生とご家族の健康を守るため健康保険組合及び厚生年金制度に加入のために尽くされた。又名古屋刑務所の教誨師として奉仕され、釈放者を教会に導きお世話をされたりその他、豊ヶ岡少年院伝道、八事孤児院伝道にと大いに活動された。

 山本よね牧師は一九四九年名古屋キリスト教矯風会名古屋支部長及び中部部会長に選出され、殊に婦人の厚生施設草薙寮に毎月二回出張され伝道に励まれ婦人の厚生に尽くされた。一九五三年愛知県桑原知事より愛知県青少年問題協議会委員を委嘱され後、一九五六年四月十日には名古屋人権擁護委員として法務省より発令を受けられ公的にも「実行の人」として信任されておられた。然し一九六七年頃から忠雄牧師が体調を崩されてからは対外的な活動から一切退かれ教会の牧会、会堂建築事業にのみ専念された。

(5) 教会の教勢、拡張時代

○ 家庭集会

 山本忠雄牧師、よね牧師時代は伝道の一端として教会員の家族にも主の福音を伝えることを願って家庭集会を重視された。又集会には家族のご近所の方をも導くよう指導され一人でも多くの方に主のみ言葉を伝えることに努力された。当初は年間行事として長老会、婦人会で申し合わせて順次家庭集会が行われたが段々と家庭婦人の職場進出もあって集会も少なくなり、教会員の希望によって故人の記念会を家庭で牧師、教会員を招き集会を行ったり又教会員自宅の新築祝の感謝会を家庭集会でもつようになった。
 集会は礼拝形式で行われて後、茶菓の接待で和やかに親睦のときをもち教会員の交わりを深めた。

○ 奉仕する教会員

 ローマの信徒への手紙十二幸三節−八節の聖句から山本牧師は一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互いに肢体だからであるとの五節を引用され奉仕をする者は奉仕をなし……と教会員としての務めを教育された。総会で選ばれた長老は教会の業を分担し各月の当番長老を定め礼拝の諸係の連絡をとり各集会がスムースに行われるように努めた。又礼拝に大切なオルガン奏楽者には殊に心を配られた。教会員は子供にピアノを習得させてご用に当たるように努力されたが女子が殆どで、成人されると結婚で転籍されることが多く後継者不足で終始教会の悩みとなった。

 教会学校の奉仕としては信徒から教師が選ばれて伝道の業に励み、聖日は一般信徒よりも一時間半以上早くから教会に出席し幼稚科から高校生まで巾広く聖書を通して教え、その他夏期学校、イースター早天礼拝等その努力は並大抵ではなく、社会的にも多忙な方々が長くこの任に当ってこられた事は忘れ難いものです。

 又壮年会、婦人会、青年会と各部で奉仕をされたが、特に婦人会は山本よね牧師の指導で清掃奉仕や愛餐会の準備には手厚く行われ教えられることが多くあった。よね牧師は教会員の教育に熱心できびしくされたが、ご自分が率先して奉仕の姿勢を示されたので婦人会はそれに従って奉仕に心をつくした。

 隠された奉仕は多くあるが、週報印刷も当時は謄写版で印刷され多くの姉妹方のご苦労で奉仕され、又教会の看板は忠雄牧師が雨の日も風の日も表通りで書かれていたそのお姿にうたれ兄弟姉妹が次々引き継いで今日まで毛筆で丁寧に書きつがれている。

(6) 山本忠雄牧師の召天

加藤操子

 山本忠雄牧師は一九六七年(昭和四十二年)頃から体調を崩され礼拝説教の講壇に立たれる迄、歩行もかなりご不自由でしたが不思議と講壇に立たれると体を伸ばされ説教を時間通りなされておりました。司会をされるよね牧師のお心遣いも並大抵ではありませんでした。一九六八年二月四日長老会において山本忠雄牧師、よね牧師より健康上の都合で牧師引退の申し出がありました。長老会では、このまゝ忠雄牧師に御静養を願ってよね牧師に牧会をお願いしたい旨決議し、よね牧師の御諒承を得ることが出来ました。これを契機にかねてからの会堂建築計画を具体化し駒場町を牧師宅とすることゝなりました。一九七一年十二月には漸く久保豊司子姉の紹介で瑞穂区洲山町の土地家屋を構入することが出来ました。それ迄忠雄牧師は台所に置かれたベッドに三年余り病床につかれたまゝでありました。礼拝の集会が終ると信徒は一人一人病床にお見舞の挨拶をするといつも笑顔で応えられ、却って励まされて帰ったものでした。長い病床生活のため寝ダコで激しい痛みを耐えておられたことを後になって知りました。よね牧師は教会の御用に多忙の中、忠雄牧師の看病にも冬くされてその気力は人並みではありませんでしたが、その蔭には竹内錦子長老の並々ならぬご奉仕のあったことも忘れ難いことでありました。

 一九七二年七月十九日(水曜日)山本忠雄牧師は静かに天に召されました。当日は夕の集会があり二十名近い信徒が集い、よね牧師による聖書研究会が行われ祈祷会に移る際、よね牧師は予期されていたかのように突然祈祷会は忠雄牧師のベッドの方で致しましょうと言われ、私達はベッドを囲むように集まりました。よね牧師はまずカルピスを忠雄牧師の口に差し上げられると三口程飲まれました。

そして讃美歌四八八番を合唱、聖書はヨハネ黙示録第二十一章一節から四節迄よね牧師が朗読され祈祷されて後、讃美歌四八九番を合唱する中を忠雄牧師は静かに息をひきとられました。先生は尾陽教会主任担任教師として三十年を「現職者」として全うされました。生前忠雄牧師は常に信仰者として「死に至る迄、忠実であれ」∃ハネ黙示録第二章十節のみ言を語られましたが、先生御自身が身をもって証しされたことを私達は限の前にみる思いでした。

 七月二十日 前夜祭
 仙台より急遽御長男山本尚忠牧師(仙台広瀬河畔教会牧師)来名され、尚忠牧師の司式によって十九時より前夜祭が行われ、二十時納棺されました。各教会からは牧師と信徒の方々も多数の御出席を得て厳粛に執り行われました。

 七月二十一日御葬儀
 尾陽教会に於いて十二時三十分より山本尚忠牧師司式によって葬儀が行われ、十四時出棺されました。葬儀には教会に入りきれず表道路には多数の参列者が出棺の最後のお別れをして深い感動を与えられました。(葬儀委員長 大木保長老)

(7) 山本よね牧師とその経歴

 一八九七年六月十一日(明治三十年)宮城県仙台市にて生まれられた。生家の松尾家は仙台では大家であった。よね先生がキリスト教に信仰をもたれることに松尾家では厳しく反対され遂に家を出られた。それは二十才の頃であったそうである。後、救世軍士官学校に入学されたが、学校の校長は外人校長として最後のクラスで非常な人格者のスウェーデン人で男女共学、男女同権、男女同賃金の教育で、本部が英国にあって世界的思想をキリスト教と共に養われた。一九二十年士官学校卒業後群馬県桐生小隊に赴任し、伝道をしながら学課を送り終わり後中尉に任ぜられた。一九二一年七月十五日山本忠雄中尉と結婚され六ケ所の小隊と二ケ所の社会部に奉仕された。一九二八年台湾に赴任されたが山本両先生には姉妹兄弟の四人の子宝に恵まれておられた。台湾では大いに活躍され、一九三八年本土に戻られ大佐となって東北六県と新潟の七県の監督となり仙台に付かれた。一九四一年六月救世団は解散され日本基督教団に合同して後同年十一月十九日牧師として按手札をうけられた。
(故人の略歴は一九八六年二月九日故山本よね牧師記念会週報に掲上された文を引用しました。)

(8) 山本よね牧師の辞任、召天

 一九七二年七月十九日山本忠雄牧師召天されてのち、よね牧師が主任担任教師となられたが一九七四年十一月十五日突然倒れられ、医師より高齢でもあり職務を引退されるよう薦められ辞任を決意された。尾陽教会の牧師として三十年間忠雄牧師と共に只管、主の宣教につとめ牧会を続けられ教会貝にとっては父母のような存在であった。その後、大阪におられたご次男登氏の許に移られることになり長老と教会員数名で自動車でお送りした。

 教会ではよね牧師に心から敬意を表して名誉牧師として覚え母の日、お誕生日祝、クリスマスプレゼントを贈って感謝した。後仙台の広瀬河畔教会牧師山本尚忠先生の許に移られた。一九八五年十二月五日東京の病院で療養中召天され東中野教会にて葬儀が執り行われた。享年八十八才であった。

 尾陽教会からは菅生昌利牧師、大木保長老、大村千代光長老、加藤操子長老、竹内錦子姉、久保豊司子姉の六名が上京し参列し心から哀悼の意を表しお別れしました。


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