第一部 教会史

三、尾陽教会と歩みを共にして

柿沼敬一

私が尾陽教会の歩みと関係することになったのは、一九七四年(昭和四十九年)十二月に山本よね牧師が病になられて、代務者を引き受けた時に始まります。その後、菅生昌利牧師の大阪教区への転出の役と、村本新日牧師の富山地区への転出後の合計三回、代務者を務めました。この三回の代務者の期間を通算すると、ちょうど三十ケ月になり、随分尾陽教会との関係は深かったのだなと驚いています。

第一回の代務者の時は、一九七四年十二月から一九七五年五月までの六ケ月でした。この時は、聖日礼拝の説教者のお世話と、毎週木曜日に聖書研究、祈祷会の指導に私自身が参りました。その時、大変驚いたのは、朝礼拝の出席平均が四十名そこそこであった尾陽教会の聖書研究、祈祷会の出席者が三十名を超えており、老若男女の出席者が当時、日本家屋であった礼拝堂に溢れるように集まっていたことです。聖書の学びと祈ることを、聖日礼拝に準じて大切にしようとする前牧師山本忠雄、よね両先生の教会員に対する指導、訓練の徹底を証しする情景でした。又、山本先生御夫妻の信仰指導を感じさせるもうひとつのことは、尾陽教会の会員たちの、教職に対する接し方でした。

無意味に教職をたてまつることは問題ですが、神の御言葉の伝達者としての教職への敬意ということを、しっかりと植えつけておくことは大切です。その意味で、前牧師が教会員をきびしく、しかも温情の中で育成しておられたことを感じました。

第二回目の代務者は、菅生昌利牧師が大阪教区・茨木東教会へ転出された後の一九八七年四月から同年七月までの四ケ月です。山本牧師御夫妻が、教会員たちを敬虔深い信徒として育成することを主要な目的とされていたのに対して、菅生牧師は神学校の学生時代から学び、また深く体得されていた改革教会としての教会形成を推進しようとされたと思います。尾陽教会の会員たちが、山本先生時代に植えつけられた素朴ではあるが深い敬虔、信仰への熱心に、教会形成のための神学的訓練、信仰訓練が加えられたら、よりすばらしい教会が育つであろうと、私たちは大きな期待をもって見守ったものです。その菅生牧師時代に、教会は新しい幻を求めて、現在の瑞穂区松園町に土地を取得し、ここに教会を建設することを決断し、実行に移されました。当時の希望に燃えた菅生牧師の目、菅生牧師の抱負、そして、目的に向って進む教会員の方々の生き生さした姿を思い起します。

その菅生牧師も、一つの役割を果たされて大阪へ転任され、私が再び代務者の任をお引き受けすることになりました。菅生牧師の後任として村本牧師が赴任されました。私が斡旋の労をとったのですが、たまたま阿漕教会から尾陽教会へという菅生牧師と同じコースでの転任となりました。

村本牧師は、それまで菅生牧師が住んでおられた駒場町の住居の老朽化がはげしくなったことや、又、教会のそばに住居して牧会に当りたいという考えから、松園町の仮設教会堂の奥にプレハブの簡易な住居を用意して、これに居住し、牧会伝道に励まれました。又、新共同訳聖書をいち早く礼拝その他の集会に取り入れられたのも村本牧師の指導によるものです。その後、村本牧師は出身地である富山県高岡教会の招聘を受けて、郷里伝道の幻を抱きつつ高岡教会へ転任されました。

第三回目の代務者就任の要請を受けて、責任を持つことになったのは一九九〇年八月のことです。今回は前二回とは異なり、一年八ケ月間という長期間代務者を務めることになりました。この間、地区内の教師の方々、教務教師の方々の協力も頂いて、聖目礼拝を無事に守ることのできたことは大変感謝すべきことです。この期間内での重要なことは、教会員たちの会堂建築への熱意が高まり、着々とその準備が進められたことです。立地条件にいろいろ問題のあった駒場町の土地の売却も決まり、現在地の松園町での会堂建築の計画が着々と進められました。仮の牧師である私の任務は準備段階までのことであり、具体的な会堂建築の仕事は、次に赴任して下さる牧師を中心にして実行されるべきであることが確認されました。又、次の牧師としては、若い気鋭の方が良いのか、又は、年功を経た老練な方が良いのかについても論議を交わしました。様々な議論の末に、こん度は経験豊かな老練な教師に赴任して頂いて、その指導のもとに、会堂建築を含めた教会貝の指導をして頂くことがベターな方法だと確認されました。たまたま、堺川尻教会を辞任される意向のある都田牧師を紹介して下さる方がありました。早速、都田牧師と交渉をすすめて、幸いにも先生の御赴任の運びになりました。

一九九二年四月に着任された都田牧師は、鋭意、会堂建築に取り組まれ、新しい装いをもった会堂を建築されました。かつては「家の教会」的な教会としてユニークな教会形成をされた尾陽教会が、今は、斬新な会堂を持つ新しい教会として再出発されました。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる」(ルカ五・三八)。その精神にしたがって歩みを始められた尾陽教会のこれからの歩みに神の祝福を祈るものです。

終りに、初代の牧師であった山本忠雄、よね牧師についての私の思いを記します。山本忠雄牧師は、中部教区における互助活動の草分けとしての務めを担われました。先生が教職の健康保険、厚生年金の制度を教区に導入されるため大変な労苦をされたことを私は承知しています。私もその先生の足跡を辿って、いささか、教区内の互助体制の整備にたずさわったものです。又、よね牧師は私たち後輩牧師に御馳走して下さったり、様々な配慮をして下さる方でした。その姿勢が教会員の信仰指導にもあらわれていました。時にはきびし過ぎる一面もあったようですが、その徹底指導が今日の尾陽教会の基礎を築いたと言えると思います。


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