第一部 教会史

四、菅生昌利牧師時代

(1) 洲山町に教会移転

菅生昌利牧師は一九七五年五月三日尾陽教会主任担任教師として招聘の要請を受託して頂き五月十一日ご家族の千栄子夫人長男昌高君(三才)と共に名古屋に着任された。駒場町の教会は牧師館とし礼拝堂は洲山町に移すべく準備に入った。六月八日菅生昌利牧師の任職式が中部教区総会副議長加藤久雄牧師の司式によって行われた。

ご母堂は伊勢松阪の日本キリスト教団山田教会の熱心な信仰厚きお方といわれたがご病気で静養中にも関わらず先生の妹江美様と共に名古屋にこられ任職式に出席された。その後八月一日ご母堂は伊勢病院にて逝去され着任早々深い悲しみを覚えられた。

洲山町への移転準備は真夏の炎天下、古い建物の改修に菅生牧師始め教会員一同汗と挨にまみれて壁を抜き取壊しの作業、廃棄物の処理に懸命に行われた。内部の修復には小塚木工所に依頼して集会所らしく改修された。

十月五日献堂礼拝が行われ菅生牧師は「花嫁をもつ者は花婿である」と題して説教され司会者は大村千代光長老であった。翌年一九七六年十月三十一日には尾陽教会創立五十周年記念礼拝が行われ日本キリスト教団金沢教会内藤留幸牧師によって「かくの如くなるは神の恵み」と題して説教をされ祝福をうけた。又大阪在住の名誉牧師山本よね先生をお招きし礼拝を共にして感謝会をもった。出席者四十二名。洲山町での礼拝は三年間であったが一九七八年九月教会のご用に大いに献身された竹内英雄長老が突然脳出血のため逝去され教会で葬儀が行われたことは教会員にとって忘れ難い悲しみの思い出として残った。 

(2) 松園町の土地購入、仮教会堂を建てる

一九七八年四月十六日定期教会総会にて会堂建築のため新たな土地を購入することが可決された。洲山町の土地は三三.八四坪と狭く住宅密集地で建築するには不適当と思われ新たに瑞穂区内で土地購入のため不動産若尾地所に依頼することになった。同時に洲山町の土地を売却することになり依頼していたが五月十一日若尾地所より洲山町の土地買主のあることの連絡があり急遽長老会にて審議の結果新たな土地購入が決定してからという条件で応ずることとした。その後三・四件の物件を菅生牧師と委員が選定にあたっていたが八月に入って松園町の売地の紹介があり十三日会堂建築委員会において松園町土地購入するを決定した。場所は洲山町に近く土地は八七.四五坪で環境もよく最適の場所であった。然し建物については予算の関係で暫く後にということで礼拝の場所について検討されていたが土地の登記申請にあたって愛知県庁宗教法人課より建物の所在の確認が必要とされバラック建てでは建築規定により不許可とされるとあって急遽仮会堂を建てることになった。建築業者は(株)新日本ハウスに依頼し瓦棒葺き平屋建一棟軽量鉄骨造り二四坪の仮会堂が建築された。このため当初の予算は増加した。

十一月二十二日仮会堂(水)にて聖書研究会、祈祷会が行われ二十六日初の礼拝を感謝のうちに守られた。出席者三十六名であった。松園町に移ってからは基本財産の設定(松園町)基本財産の処分(洲山町)教会、規則変更の手続き、会堂建築費に関する予算の検討、借入金に関する件、会堂建築資金募金に関する件、等問題は山積し菅生牧師のご苦労は並大抵ではなかった。長老、信徒も一丸となって作業の奉仕に当たったが銀行からの借入金返済については早急に返済するために菅生牧師は各教会の諸先生や菅生牧師ご夫妻の身内の方、又親戚の方達に融資借入金の協力を積極的に依頼され最後まで返済のための重荷を負われることになったことは誠に申し訳のないことであった。一九八三年十月三十日会堂建築委員会において第二次計画として牧師館、礼拝堂の建築基本構想をたて翌年三月三十一日の委員会にて具体化に向かった。一九八五年三月三十一日をもって融資借入金の返済が完了し外部献金者及び融資借入先に会計報告と御礼を申し上げることを決議するにいたった。五月十三日感謝をこめて決算報告書、献金者名簿を添えて御礼状を封書にて発送完了する。借入金返済完了迄に七年間を要した。

その後第二次計画の具体化に入り会堂建築献金の継続、駒場町牧師館の土地売却、礼拝堂牧師館建設のため他教会の見学等行われていたが一九八七年二月長老会にて菅生牧師より突然辞任の申し出がありその決意は固くやむなく三月二十二日臨時教会総会を開催し申し出を受ける事となった。菅生牧師は就任以来十二年の間、尾陽教会の会堂建築に終始され洲山町の教会より松園町にいたる道程は苦難に満ちた時であった。教会以外に三重刑務所の教誨師として奉仕し又金城学院中学校に非常講師として勤務される等多忙をきわめられ遂に健康を害されて入院されたこともあったが十二年の間、菅生千栄子夫人の隠れた多大のご協力のあったことを合わせて深い感謝の念をもった。


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